第8章 パートナーシップ
グランドデザイン
2020年3月19日(木曜日)、呉服の桐生に集まった佐々木と三上、加藤、前田は、開発に入る前に業務システム全体のグランドデザインを検討した。スクラムマスターの山田、アーキテクトの木村も参加した。ビジネスの骨格をモデル化したのちに、ストーリーとバックログを作り、スプリントの計画を練るという段取りだった。
前田は、木村に尋ねた。
「データモデリングで最初にやることはなんでしょうか?」。
木村はこう言った。
「マスターのモデル作りです。マスターがなければ何もできません。サブタイプ構造を明らかにし、項目の精査を最初に行いましょう。業務フローは既存のものを見直す必要はあるでしょう。そして、マスターを中心に概念データモデルを整理する。これをグランドデザイン工程としましょう」
「わかりました。グランドデザインの後、バックログを作成するのですね。やはりフィージビリティスタディはやったほうがいいですよね」と前田は手許のメモを見ながら木村に確かめた。
そちらと並行して、グランドデザインの一環で業務フローの可視化が実施された。既存の業務フローの課題を洗い出す場面では、三上が中心となり、山田と木村が協力した。
業務フローに関連して、現状システムの使い勝手に関するユーザー側からの不満は、いくつか指摘されていた。
・ 操作する画面を中心に、その流れを書いていただけなので、そもそも何の業務を、どのような目的のために行っているかわからない。
・ 分岐が多すぎて一覧性に乏しい。
・ 曖昧な表現が多い。例えば「確認する」「管理する」といった記述である。
・ 全般に細かすぎる。そのため、業務が変わった場合の変更管理の負担が大きい。
これらを踏まえて、アーキテクトの木村は次のように、三上にアドバイスした。
「そもそも、業務フローというのはコンピューターの存在を前提とする必要はないのです。みなさん一度、コンピューターのことをいったん頭から切り離して考えましょう。それから改めて、業務の流れを記述してみましょう。ビジネスの大きな流れに意識を合わせるんです。ビジネスの大きな流れというのは、呉服の桐生における絹織物の生産や販売です。実は、創業期とそれほど大きく変わっていないかもしれません」
それを聞いて、三上は「私もこの業界ではまだ若輩ですが、確かに、俯瞰してみれば大きくは違わないかもしれません」と言った。
「三上さん、御社の業務内容を皆目知らない、赤の他人に業務内容を説明するつもりで書いてみてはいかがでしょうか?」
「やってみます。ビジネスの骨格を書けばいいわけですね」と三上は、会議室のホワイトボードの前で、ペンのキャップを開けた。
木村はホワイトボードに業務と業務をつなぐ線を引いたり書き直したりする三上の姿を見て、笑顔で頷いた。
「5W1Hを意識すると良いでしょう。つまり、誰が・いつ・どこで・何を・なんのために行うのか、に当てはめていくのです。ここで作る業務フローは他人任せにせず、自分たちで書くしかないものなんです」。
そばにいる、佐々木も真剣に、三上が描くホワイトボードを見つめている。
木村が付け足した。
「骨格を書くときについ、“確認する”・“管理する”というような言葉を用いがちですが、具体的に何をやっているかわかりません。伝える意味が曖昧になるので、使わないほうがいいですね」
「どうすれば良いでしょうか」
「例えば、『○○に基づいて行う』『△△に□□を指示する』ではどうでしょう」
「なるべく実態に即して記述するのですね。やってみます」
三上は木村のアドバイスをもとに、業務フローの整理に取りかかった。午後に始まったミーティングは、休憩を挟みつつ5時間以上かかり、18時にお開きとなった。
3月24日(火曜日)、三上は、グランドデザインに参加しているプロジェクトメンバー宛てのメールを送った。添付されていたのは、先週ホワイトボードに木村の協力を得ながら描いた業務フローの清書だった。
三上は業務部門の関係者や佐々木に相談しながらも、週末を使ってほぼ独力で作り上げていた。前田は、添付ファイルの業務フローは、呉服の桐生の社員ではない人間が見ても、CRMに関わる業務および業務間の関係性が一望できるように感じた。
佐々木もメールを受け取って、業務フローを見ていた。わかりやすいこともあったが、以前ベンダーに依頼して作成してもらった時に比べてかかった日数が圧倒的に短かった。木村のアドバイスが的を射ていたのだろう。
(時代に関係なく、また赤の他人でもわかること、こんなシンプルで簡単なことができていなかったのだ。目からウロコとはこのことだ)と佐々木は思った。
3月25日(水曜日)、三上と佐々木は、本社の業務部門のフロアで、山田のアドバイスのもと、「ストーリー」の作成に取りかかった。木村のアドバイスでは、業務フローを書いたのちにストーリーを書くのだという。システム化する部分というは、業務フローの中から切り出された業務に的が絞られる。そのストーリーについて山田が数日前、次のように説明していた。
「ストーリーという言葉は、そのまま『物語』と解釈して差し支えありません。それでは、何についての物語か。これは一連の業務シナリオのことなのです」。
ただ、これがよくわからない。「ストーリーってなんだ?」と、二人で腕組みをしながら唸っていると、「お、頑張っているな」という声が聞こえた。
振り返ると、社長の藤四郎がそこにいた。紺色の袷に、浅葱色の羽織というスッキリした出で立ちだった。たまたま二人の真剣な眼差しを見て、声をかけてみたという。
「社長、お疲れ様です!」と二人は、背筋を正した。
「いや、そのまま、進めてください。ああ、これは、例のシステム開発だね。何をやっているの」と藤四郎は、聞いた。
三上は、外部コンサルタントの知見を借りながら、プロジェクトのグランドデザインを進めていることを伝えた。
「説明では、『一連の業務』が、物語すなわちストーリーと呼ばれている、というのですが、ピンと来なくて」。
藤四郎は、しばらく業務フローの図を見つめてからこう言った。
「そうか。例えば、夏にお客様に向けた浴衣販売のキャンペーンを実施する。キャンペーン内容の企画立案、営業・宣伝、注文受領から納品、そしてキャンペーン実施効果の評価・判断、大まかにこれらが一連の流れ、だよね」
「なるほど。一連の文脈を持った業務、だから物語なんですね」と佐々木は言った。
三上が「そういえば、スクラムマスターの方が留意点としてこんなことを言っていました」と続けた。
ポイントは、ストーリーをあまり大きくし過ぎないということ。一連の業務であっても、さらに小さく分割できないか考えてみる。もちろん、あまり神経質にならなくてもいい。例えば、一つの画面単位くらいの粒度で、ストーリーにしてしまっていい、と。
「ほお。そうすると、キャンペーンのストーリーなど、企画立案から効果判定までの一連の流れは、かなり長いかもしれない。もっと場面を細かく分けてみてはどうだろう。それから、小さく分けてみた業務に関わる人には誰がいて、どんな役割を演じているのか。詳しく洗い出してみるといいんじゃないか」と藤四郎は言った。
「あ、そうですね。アジャイル開発で重要なのは、『小口化』と言われていました。社長のアドバイスを踏まえてストーリーの作成にトライしてみます」
「この仕事は面白そうだな、あとでどうなったか教えてくれ。応援しているよ」と藤四郎は笑って手を振りながら、自分の執務室に戻っていった。
三上は、早速、業務部門の現場にヒアリングを申し入れて、グランドデザインの共有と可視化への協力を依頼した。業務フロー・バックログに入れるストーリーが次第に形になってきた。
一方、呉服の桐生の直販に関する概念データモデルの整理も、アーキテクトである木村のもとで、ようやく形になってきた。佐々木、三上、前田、加藤らプロジェクトメンバーの間には、ようやくアジャイルスプリントのスタート地点に立ったという認識が生まれつつあった。
←第29話:ビジネスという物語 第31話:初めてのスプリントレビュー→