見切り発車
2019年5月の連休が明けた7日(火曜日)。長い休み明けということで、この日、毎週恒例の週次ミーティングは設けられていなかった。前田は、日比谷ソフトウェアのオフィスで、加藤にまずは相談を持ちかけた。直販部の業務の今後のあるべき姿をベースにFit&Gap分析を行い、SF1のデータモデルを調整すること。また、販売部から得るデータは少なく絞り込んでデータモデルを定義する、という内容である。直販部、販売部、コールセンター、ECサイトなど、各部署が利用する既存顧客管理データを整理すると、SF1におけるデータ項目はマスターデータで約150、さらに個別の、例えばコールセンターにおける問い合わせの内容や履歴、またはイベント、契約関連の項目などが加わるとその倍以上になると概算していた。データ項目は多ければ良い、というものではない。どういう業務に活用するのか、その目的に合わせて必要十分なものに絞り込んでいく。無駄に多ければデータを入力するコストもかかり、メンテナンスが重くなる。
「その辺りが現実的な線だろうな。あとは、桐生の業務部門の人たちがどうしたいかだね」
「販売部のみなさんのご負担を減らせる分、高橋さんや古田さんにもご理解いただけるのではないか、と思います」
(呉服の桐生の各ラインを橋渡しする業務部の三上なら、きっとわかってくれるだろうな)と、前田は思っていた。
「よし、その線で提案してみよう。来週14日の週次ミーティングを目標に準備をしてくれ」
5月14日(火曜日)、呉服の桐生で行われた週次ミーティングには、販売部長の高橋、情報システム課長の佐々木、そして、業務部業務管理課の三上が同席した。
前田は、今回のSF1における顧客像をホワイトボードに描いた。放射状に配置して書き込んだのは、直営店、卸問屋、デパート・百貨店、コールセンター、ECサイトなど、呉服の桐生が有する顧客チャネルである。そして、CRMに入力するデータ項目の選定指針は、「顧客対応品質と満足度の向上」「新商品・サービス開発」に寄与するもの、と説明した。
「先日、卸店の在庫データを集める、という話を古田から聞いたが、何に使うつもりなんだ」と高橋は前田に尋ねた。
「売れ筋を掴むことで、顧客満足度向上や新たな商品づくりに生かしたい、と考えてのご提案でした。各部門の業務を分析した結果などに基づいた上での提案です。とはいえ、現場ご担当者への負担など配慮が行き届かなかった点がありました。そこはお詫びします。改めて、販売部からご提供していただけるデータについては、今月中に固めていただきますよう、スケジュールの進行上、どうかご協力をお願いします」と頭を下げた。
「ふむ」と高橋は言った。
ラインである販売部と直販部の両方の業務をサポートする業務部業務管理課の三上は、前田の説明を聞きながら、パッケージソフトウェアのSF1が直販部に向いていることに気付いていた。また、専務の高橋が期待している販売部員に対する納得感のあるインセンティブの計算が、どちらかと言えば人事評価と連動した人事管理と呼ばれるパッケージで行うべきものだとも思っていた。ましてや藤四郎が言っている「在庫を減らし、売れ筋を見極めて生産に結びつける」ことなどは、製造部門まで巻き込む必要がある。ERPソフトウェアではないCRMのSF1には、業務カテゴリーが違い過ぎる話であった。
このミーティングの3日後の5月17日(金曜日)。呉服の桐生側から、日比谷ソフトウェアの提案に対する返答がメールできた。ただし、その内容は芳しくはなかった。
「5月14日の提案は、直販部の売上を伸ばそうとしているように聞こえた。売上比率の大きい販売部の売上がもっと伸びるような提案に変えてほしい。販売部が提供するデータについてはまだ検討中である」と記されていた。
5月28日(火曜日)、当初予定されていた要件定義フェーズの週次ミーティングでも、販売部からは、日比谷ソフトウェア側の提案に対する明確な返答がなかった。事実上の先送りである。
スケジュールでは、マイルストーンとして、要件定義が終了する時点で佐々木チームによる成果物である要件定義書の検収とサインオフが行われることになっていた。前田はこの週次のミーティングの最後に、要件定義フェーズのサインオフを議題としてあげた。
前田は、要件定義のフェーズを延長し、全体のスケジュールを見直すのが最良と判断したが、結局、佐々木の「おおむね要件定義は完了したのだからこのまま予定通り設計フェーズに突入し、設計フェーズで積み残しの案件を引き続き精査していく」という発言に押されてしまう結果になった。
プロジェクトのガバナンスの観点からユーザーによる成果物の検収、サインオフだけは確保しなければいけない、という日比谷ソフトウェアのPMOからもらったアドバイスに従い、前田は佐々木にペンディング事項の課題表付き要件定義書と検収書を届けた。佐々木から加藤の元には、折り返しすぐに捺印済みの検収書が届いた。こうして形だけのサインオフは完了した。
6月からは、設計フェーズに入った。要件定義が固まらない中での見切り発車である。
要件定義フェーズのサインオフを受け、前田は以前より作成を開始していた要件定義フェーズでの重要なタスクである、WBS(Work Breakdown Structure)のバージョン1(初版)をチームと一緒に完成させた。WBSは、プロジェクトの主な成果物を階層化し、それぞれに成果物を生成するタスクを具象化したものだが、現状それにはまだまだ不完全な部分が散在するのを見て、前田は再び深いため息をついた。