第15話:「顧客」とは誰か

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第4章 出口のない行進

 

 

「顧客」とは誰か

設計フェーズの予定期間は2019年6月から9月末まで、である。
しかし、その前段の要件定義フェーズでは、明確に各種仕様が固まっていなかった。核となる「顧客とは誰か」という問いについて、呉服の桐生内部の二つの意見はもつれたままだった。着物を買ってくれる顧客を中心とするのが直販部寄りの考え方で、販売卸やデパート、百貨店などを顧客と定義するのが、会社の売上の6割を占める販売部である。販売部長の高橋は先代からの番頭格で、社長とはいえ40代前半の藤四郎が意のままに操れる相手ではない。
CRMは、企業の様々な顧客接点を通じて得られる顧客のデータを集約するシステムである。「誰を顧客とするのか」という方針は仕様そのものに影響を及ぼす。
そのため、現状では、要件定義フェーズの主な成果物として作られるビジネス要求の一覧、ビジネスプロセスに関連する業務機能構成表、業務フローや業務処理定義書、概念データモデル(ER図)、外部インタフェース一覧、帳票一覧などには埋めきれない部分が残った。
とはいえ、来年2020年4月1日向けたCRMシステムのカットオーバー(運用開始)の遅延は許されるわけではない。実質的なプロジェクトマネージャーである前田は、現時点で要件定義がある程度完了している部分や折衷可能な部分から、基本設計をスタートさせた。それと同時に、二転三転する要求事項やシステムの仕様については粘り強く、関係者と協議を続けた。

10月3日(水曜日)の22時。会社からの帰宅途中で前田は、最寄りの井の頭線と小田急線が交わる下北沢駅から少し離れた住宅地に近い、行きつけのカフェバーに一人いた。無口なマスターが静かに差し出したコスモポリタンのカクテルの綺麗なピンク色をぼんやり見ながら、前田は、前回(9月27日)の変更管理委員会の不毛な議論を思い起していた。

2019年9月27日(金曜日)、呉服の桐生と日比谷ソフトウェアの関係者が会議室に集まった。要件定義内容に関する変更管理委員会は3回目を数え、この日が最終回の予定だった。だが、議論はここでも平行線をたどり、仕様凍結の合意を得ることができなかった。
会議では、資料を部屋の前面スクリーンに投影しながら、前田が進捗状況を説明した。
「予定では、この9月末に、設計フェーズが終了していることになっています。しかし、いまだに仕様変更が続いているのが現状です。スケジュールの遅延に関わるため、これ以上の仕様変更は受付けられません。呉服の桐生の皆さんに要件を確定していただく期限はもう3カ月以上も過ぎています。ここで再度、MoSCowと言われる『Must have, Should have, Could have, Won’t have』を区別していただいて、Must haveやshould have 以外の項目は、次のフェーズで行う方向性で、項目を整理していただきたい」と前田は、思わず半立ちになりながら強い口調で出席者全員を見渡して言った。
前田の口調に一瞬引いた佐々木であったが、すかさず「そのShouldだか、Couldだかってなんなんですか? ここは日本ですよ」と切り返した。
「すみません。つまりどうしても必要な項目、あった方が良いという項目の意味です。つまり要求項目に優先度をつけて、優先度が低い項目は、本番稼働開始後に様子をみて必要ならば、別途開発するという手法です」
「その切り分けがすぐには出来ないのが問題なのはわかっているよ。ただ、ユーザーに机上の業務フローで説明すると、『具体的イメージがわかない』とか、『実際これまで今使っているシステムにはその機能があるのだから念のため盛り込んでおいてよ』といった話になるんだ」と佐々木は愚痴をこぼした。
「そもそも、なのですが、そういったユーザーの要望を整理するのが、佐々木さんチームの役割なのではないのですか? それも期限内に。佐々木さんもご存じの、プロジェクトマネジメントの世界標準であるPMBOK🄬でも、要件定義の仕様書をユーザーがレビューして、正式にサインオフをいただいてから実装フェーズに進むとあります。つまり今は、ここで仕様をいったん確定し、仕様変更を凍結する時期にきています。そして、Could have のような、あればいいな、の項目は次のフェーズに回す、といった優先順位付けが必要です。このままではプロジェクトが抱えるリスクが大き過ぎます」
前田は、さらにキックオフ時に提示した組織図の注釈部分にある、役割・分担表をスクリーンに投影した。
「部門間の要求の調整、つまりマーケティングを行う企画部、直販部や販売部からの要求の調整と意思決定などは、佐々木さんチームのところに担当を意味する『〇』印がついていますよね」と、前田は、ポインターでその部分を指し示めした。
佐々木がなにか言いたそうにしているのを構わずに、前田は続けた。
「それにですよね、PMBOKでは、このようにスコープがじわじわと広がっていくのをスコープクリープと言って、ちゃんとマネジメントしなければ収集のつかない状態になると警告しています。これはプロジェクトではかなりの危険信号です。それと、これもPMBOKになるのですが・・・」と言いかけると、佐々木が前田の言葉を遮った。
「またPMBOKか。私もPMBOKについては、少しは勉強を始めているよ。前田さんがPMBOK、 PMBOKって言うからさ。でも、あれはあくまで、推奨されるプロジェクトマネジメントのやり方、で強制力があるわけじゃないよね」
うんざりしたように佐々木は続けた。
「そもそも、PMBOKでは顧客の要求は無視せよ、って書いてあるの?」
一歩も引かない前田と佐々木の言い合いに、同席していた加藤が一つ咳払いをした。
前田は、咎めるような加藤の視線を感じて、(その推奨のやり方にできるだけ従うことで、プロジェクトの成功率をあげることができるんです)と、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「佐々木さんの仰りたいことは、わかりました。次回の定例会で引き続き、お話をさせてください。こちらも課題管理表に基づいて再度要点を整理しておきます」

「あぁ・・・・」と、下北沢のバーカウンターで、前田は思わずため息をついた。「どうしたの、理沙ちゃん。ここのところずっと、お疲れ気味ね」とマスターが声をかけた。
「はい、こちらサービス」と、マスターはドライフルーツとチーズの盛り合わせを添えてくれた。
「ありがとう! 今日は特に、マスターの優しさが身に染みるなー。もう全然、仕事が進まなくてねー。ほんと、勘弁してほしいわ」
「理沙ちゃん、一本筋が通っているもんね。だけどさ、頑固も良し悪し。相手の機嫌を損ねたら元も子もないよ。ほどほどにね」
「ねえ。私も気を遣うし、こう見えて結構打たれ弱いんですけど。相手のために、って、やっているんだけど、今回どうも協力してくれないの。なんでかしらねー。ほんと、やんなっちゃう」
前田は店内の奥に座る男女の席を眺めながら、ハーッとため息をついた。
「あらー、そんな大きなため息ついていると、逃げちゃうよ、幸せが」とマスターは笑った。
賃貸マンションに帰る途中にあるこの店で、マスターの絶品カクテルを静かに味わいながらくつろぐ時間が前田のささやかな息抜きだった。いつもならば、(次の休暇はどこに旅行しようか、今年はずっと行きたかったバルト三国にしようかな)など、とりとめない想像を巡らし、仕事のことなどすっかり忘れられる前田であったが、今日はどうも気持ちの切り替えができない。いやここ1週間以上もこの何とも言えない憂鬱な気分がまとわりついている。
ふと最近全社員向けのメンタルヘルスの研修で、講師が言った言葉を思いだした。
「いつもと違う自分に気づくことが大事です。いつもは寝つきがよいのに、眠れない夜がしばらく続く、疲れがなかなか取れない、などです」

10月8日(火曜日)。定例会議では設計フェーズの進捗報告と合わせて、仕様凍結が議題になった。だが、いまだに呉服の桐生社内では合意に至っていなかった。

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