第32話:社員に語るトップの決意

社員に語るトップの決意

佐々木は複雑系と書かれたホワイトボードを見ながら言った。

「確かに。考えてみると、絶対に必要とは言えない機能や制約も多くありそうです」。
それを聞いた三上は、「山田さん、木村さん、朝会などミーティングに参加されていましたよね。そういう大事なこと、もっと早く言ってくださいよ」と突っ込んだ。木村と山田はハッと、顔を見合わせて「そういえば、そうでしたね」と頭をかいて、他のメンバーの笑いを誘った。
佐々木はメンバーを見渡して言った。
「では、他に反省点はありますか」
岡田が、思い出したように話した。
「技術的な問題にぶつかり、時間をロスしましたね。具体的には、今回使ったOSSのデータベースです。実は私もこのOSS DBは初めてでした。『基本的なSQL等のクエリーや文法は変わらないので問題はないだろう』と考えていたのが、甘かったです。特に、こいつのユーティリティソフトウェアの使い方に手こずりました」。
岡田の発言に、前田も同意した。
「そうでしたね。当社にこのDBを使った経験者はいます。ただ、今回は、別プロジェクトとの兼ね合いでスケジュールが合わず、メンバーに加えなかったんです」
木村はそれを聞いてこう言った。
「初めて使うプロダクトは、どの会社でも始めは難儀します。ただ、この手のツールで手こずるのは最初だけですよ。やがて慣れます」と木村は答えた。
それを受けて山田がこう補足した。
アジャイル開発では、このような技術的な問題に対して事前に対策を打つことがあります。それをスパイクソリューションといいます。技術的な問題は、手こずると1~2カ月停滞することもあります。だから、誰か一人が集中して技術的な調査を担当する。技術的な問題というのは、一見難しいようでも、案外そうではないんです。腕を磨き続ければ、技術は時間とともに習得できるものですから。特に、若手エンジニアにはふさわしい環境を与えて、自ら調べ、積極的に試してみるように仕向けていくのが良いと思います」
佐々木は腕組みをした。
「なるほど。この問題は、まだ解決しているとは言い難い。どなたかそのスパイクを実践してみてもらえないだろうか」
「了解しました。こちらで人選してみましょう」と加藤が答えた。
佐々木は座をぐるりと見渡して、問いかけた。
「ほかに何か思いつくことは、ありませんでしたか?」
山田が手を挙げて発言した。
スプリントでとりかかるバックログについてです。これは、最も優先順位の高いものから開発することが原則です、とお話ししました。ただし、特にプロジェクトの初期においては優先順位よりも『取り掛かりやすさ』を考慮してもいいと思うんです。なぜなら、ファーストスプリントは失敗しやすい。もちろん、失敗することは成長であり養分になります。今の振り返りの場もよく機能していますね。しかし、優先順位は業務上の優先だけでなく、制作側の優先順位も考慮していいんです。つまり、業務上で比較的重要で、なおかつ、制作側でも取り掛かりやすいものを次のスプリントで行うのもいいと思います」。
前田が尋ねた。
「その取り掛かりやすさの目安はなんでしょうか。例えば、要求や要件が明確で、実装も容易なもの、と考えればいいでしょうか?」
「その通りです」
「わかりました。呉服の桐生の業務部門と相談して、次のスプリントで行うストーリーを決めたいと思います」
佐々木は尋ねた。
「他にありませんか? 桜田君、なにかないかな」
「はい、私は今回アジャイルプロジェクトというものは初めての参加でした。システムの利用者の方と直接お話ができ、とても勉強になりました。ただ、反省という意味では、最初なかなか積極的に発言できなかったことです。私自身、内気な性分もあって。気づいたことがあっても思うように話せません。ただ、後半になるとそうでもなくなって幾分発言できるようになったのですが」
それを聞いた三上が言った。
「桜田さん、動くものを作る実装段階ではリーダーシップを発揮していましたよ。特に、後半は実装の観点で鋭い指摘をしてくれました」。
桜田は、照れ臭そうに笑った。
山田は、「この振り返りの場においても、桜田さんの話は、教訓になります。というのも、人間は生まれつき、自らの性格や志向は簡単に変えられないんです。だから自分の性格や志向について、振り返っても実にはあまりならない。振り返って改善することができるのは、行動なのです」と、桜田が行動の改善に言及した点を指摘した。
ファーストスプリントでは動くものを作ることはできなかった。だが、その過程、そして終了後のスプリントレビューを通じて、お互いに課題や今後やるべきことをポジティブに共有できた。これは次につながるモチベーションになる。それが最も大きな成果ではなかったか。
佐々木も前田も、参加したメンバーは各々、目に見えないながらも収穫の手応えをつかんでいた。
ファーストスプリントの終了後、前田は、三上に小声で言った。
「山田さんがさっき、人の性格は変わらない、って言っていたけど、佐々木さん、ずいぶん変わりましたね。この一、二カ月で」
「本当だよね。別人みたい。どうしてだろう」
「さあ」
「なんかいいことでもあったのかしら」と言って、前田と三上は笑った。
5月12日(水曜日)、高崎の本社の大ホールには、400名を超える社員が集まっていた。東京と横浜の直営店にいる社員とはテレビ会議で会議の内容が中継された。大ホールの壇上には着物姿の藤四郎がいた。
「呉服の桐生は、変わる時に来ています。これまでは卸問屋が私たちの顧客でした。これからは、着物を着てくれる一人一人が私たちのお客様です。着物を着てくれるお客様が、日本の着物文化を発信してくれる人たちです。国籍は関係ありません。私たちは、着物を愛する人たちを一人でも増やすために、これからも部署を超えて会社一丸となって、邁進してまいりきましょう」
この藤四郎のメッセージは、社員一人ひとりが、ベクトルを合わせていく上で、極めて効果的だった。
この日の藤四郎の呼びかけを聞いた三上は、(情報システム課の佐々木さんが、社長に伝えてくれたのだ)と思った。まさしく三上の想定通りだった。4月のスプリントレビューが終わった直後、三上の進言を受けた佐々木が、藤四郎にその旨を伝えていたのである。

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