仕立て直しとカスタマイズ
企画・要件定義フェーズがスタートした。予定されたスケジュールは、2019年4月から5月一杯である。5月31日(金曜日)が要件定義フェーズにおけるマイルストーン・レビューの日として設定された。
ここでは、開発する情報システムの目的と各種仕様を明確化すること、が目的である。情報システムを利用する現場から収集される様々な要求事項と、実現したい経営戦略やシステム投資の方針を照らし合わせて、システムの要件を具体化していく。「こんな機能がほしい」「こういう帳票・画面が必要である」という機能面に関わる要求や、ユーザービリティ、システムの性能、信頼性、保守性、セキュリティに関わる、重要度の高い非機能要求を列挙していく。数ある要求の中には相反する内容も出てくる。限られた予算と期間の中で優先順位の低いものを外さなければならない。それらを取捨選択し、まとめるのが要件定義フェーズである。主な成果物は一般に、ビジネス要求の一覧、ビジネスプロセスに関連する業務機能構成表、業務フローや業務処理定義書、概念データモデル(ER図)、外部インタフェース一覧、帳票一覧、運用要件書などである。これらの成果物が、次の設計フェーズに引き継がれる。
要件定義は、去る4月3日のキックオフミーティングでの合意に沿って、前田が中心となり、業務部門を支援する三上と連携しながら、関連する部署に事前に伝え、ヒアリングを進めていた。そして、その進捗と結果を、週次の定期ミーティング(毎週火曜日開催)で報告する運びであった。
初回は、4月16日(火曜日)、次は4月23日と週次ミーティングが開かれた。だが、プロジェクトマネージャーの前田が取りまとめを依頼した三上が、招集に対して呉服の桐生側のメンバーがなかなか揃わず、困っている、という。
直販部が出席する時は販売部が、販売部が出席する時には、マーケティングを手がける企画部や業務部門を束ねる業務部が会議に現れないのである。
前田が業を煮やして、情報システム課長の佐々木に、メンバーが揃わない理由を尋ねても、「どの現場も忙しく、都合がつかないようだ」と、のらりくらりとかわしてしまう。佐々木は、修正した体制図の通り、前田と同格に位置付けられる、桐生側のプロジェクトマネージャーである。なのに、主体的に関わろうとする姿勢があいかわらず見えない。
「よろしいですか? CRMというのはカスタマー・リレーションシップ・マネジメントの略称です。直訳すれば顧客関係管理、です。この管理を行う仕組みが、いわゆる顧客管理システムです」
4月30日(火曜日)の週次ミーティングの場で、前田は「急に来られない」という連絡のあった販売部長、高橋の代理として、初出席した古田嘉寿男(かずお)に、今回のプロジェクトの目的から説明しなければならなくなっていた。古田は1967年生まれの52歳である。前田より二十も上田は、聞きなれない言葉に目をパチクリさせている。
「御社は、このCRMシステム(SF1)の導入に際して、私ども日比谷ソフトウェアをパートナーに選んでいただきました。SF1は、数あるCRMソフトウェアの中でも世界で最も売れているパッケージです。このSF1をスムーズかつ効果的に御社に使っていただくために、現在の業務手順をベースにSF1をカスタマイズする必要があります」
前田が噛んで含めるように古田に説明する。他の出席メンバーは何度も聞いている話だ。
「そのカスタマイズって、いったいどういうことなの?」
「システムの利用者に合わせて、ソフトウェアの設定を変更することです」
「着物で言えば、仕立て直しのようなことか・・・」
「仕立て直し、とはなんですか?」と前田は逆に古田に、尋ねた。
古田は、なんだそんなことも知らないのか、という呆れ顔で、説明した。
まず仕立てとは、一反の反物から着物を作ることだ。仕立ての時には、反物を直線に裁ち、8枚の布を作る。それを手縫いで仕立てあげる。この逆が、仕立て直しである。仕立て直しでは、はじめに「解き」と言って着物を8枚の布に戻す。元に戻した状態の反物は、水でしっかりと洗える。なぜかというと、着物はそもそも水につけて仕上げるので、水につけて蘇るようにできているからだ。解いた着物を水で洗い、その後、もう一度仕立てることを、仕立て直す、という。
ちなみに解いた反物を「は縫い」をして、元の一反の反物に戻すこともできる。
「物を大切にする日本人の心と知恵が着物には、込められています」と古田は言った。
(なるほど、呉服屋さんらしい例えだな)と前田は思った。
ちなみに、着物には、呉服、和服、和装などいくつかの呼び方があるが、今日では概ね同じものを表していると考えて差し支えない。呉服のルーツは諸説あるが、三国志に登場する中国の呉の都から朝鮮半島を経由し、飛鳥時代の日本に伝来した、という説が有力だ。
前田は、仕立て直しとカスタマイズが、全く同じではないにしても、通じるところがあるかもしれない、とは思った。何より、ようやく気乗りした古田が協力してくれるかもしれないのだ。このまま説明し続けよう、と前田は思った。
「ありがとうございます。それが仕立て直しなんですね。ソフトウェアのカスタマイズの場合は、業務に合わせて機能やデザインを変えることが可能です。どんな風に設定変更が必要なのかを決めるのが、要件定義です」
「要件を定義するんですか? 販売部としては、特に設定の変更なんかは必要ないんですよ。今と同じやり方で仕事ができれば、それでいいんです」。
それを聞いて前田は、「今までと同じやり方でよい、ということは要件定義とは言わない」と研修で教わったフレーズを思い起こしていた。もし、今までと同じ仕事のやり方でよければ、そもそも初めからシステム化する意味などない。
前田は、大番頭である高橋も同じ意見なのだろうなと思いながら、古田に説明する。CRMの仕組み、システム内のデータ処理の流れ、関係者がどのようにデータをシステムに与えなければならないかの仕組みを全体的に説明した。
「課題を解決したり、より付加価値の高い仕事をしたりするためにCRMなどのシステムを導入する際には、仕事の仕方を変えていただく場面もあるんですよ。販売部の皆さんには、まず、お客様の情報をSF1に入力していただくことから始めていただければと思っています。卸店にある反物の在庫データも入力していただきたいです」
古田は眉をひそめた。
「販売部の連中は、呉服の営業や外回りはできても、コンピューターへの入力なんて、やったこともないぞ」
「用意した顧客情報の記入用紙に記入していただければ、システムへの入力は代行させていただきます。見込み客情報をいただければ、システムから適切なタイミングでダイレクトメールを出すこともできます」
「そんなことを言ったって、販売部の取引先は、古くからお付き合いのある呉服卸店だよ。大事なお取引先に『誰に売れそうなのか教えろ』とか、うちが置かせてもらっている反物の在庫を調べてくれとか、こちらの都合でもって作業してくれだなんて言えるわけがないだろう!」
前田は、困った顔をして周りを見渡したが、この日のミーティングに加藤は別件があり同席していなかった。佐々木は、それ見たことかと言う表情である。前田は、つい声を荒らげてしまった。
「このパッケージソフトウェアは、世の中で一番優れていると言われる仕事のやり方をベースに作られています。現在やっている業務のやり方ではなく、このパッケージの方法になるべく合わせていただきます」
「そんな、無茶な」
古田は憮然としながら、業務をパッケージ仕様に合わせろという前田の押し付け方については、大番頭である高橋に報告する必要があるなと考えていた。