第8話:キックオフミーティング

キックオフミーティング

高崎駅から東京方面に戻る高崎線の電車の中で加藤は、以前のプロジェクトのことを思い出していた。
加藤が苦汁を嘗めたデスマーチプロジェクトというのは、日比谷ソフトウェアに転職して8年ほど経った頃に担当した、5年前の案件だった。50店舗を展開する家電量販店のCRMシステムを開発するプロジェクトであった。当時、加藤は30代後半でプロマネ業が板についた時期であった。
結果的には、何とか完成に漕ぎ着けたものの、要件の追加や変更の対応に苦労したデスマーチプロジェクトで、大きな赤字を抱えた。加藤にとって思い出したくない”失敗プロジェクト”であった。
赤字を抱えたのは、当初合意した仕様の変更に歯止めが効かなかったからだ。
プロジェクトに影響する開発システムの仕様が変更されれば、いったん開発を止め、契約の期間や参加する人員、費用などを含めた契約内容全体の見直し作業が必要になる。それが本来の姿である、はずだった。
ところが、企業間の交渉が頓挫し、そのまま発注者側に押し切られたことで、事態は収拾できなくなった。そのことに対して、発注者は「受注する開発企業側の責任だ」と一方的に非難した。
このプロジェクトは当初順調に立ち上がったようにみえたが、要件定義が終わり基本設計に入った頃から雲行きが怪しくなった。利用部門から、要件の追加や変更が出始めるようになり、いつの間にかその件数は100件を軽く超えた。
その家電量販店には情報システム部があり、プロジェクトには担当者がアサインされていた。しかし彼は社内を取り仕切ってくれることはなく、利用部門から寄せられた改善要望のメールを加藤に転送するだけであった。後にわかったことだが、最初に要件定義した内容とは、複数要件を全社でとりまとめた「結果」ではなく、一部ユーザーから出された、取りまとめられてない「要望」を右から左へと単に流しただけに過ぎなかった。相手先の情報システム部はそれらを加藤に転送するのみで、まとめる素振りもなかった。
その後の状況がどうなったかは、想像に難くない。近頃は「デスマ」と省略されるようであるが、いわゆるデスマーチに陥っていった。もちろん日比谷ソフトウェアはそのような状況に納得していたわけではない。むしろ経営問題になっており、担当役員から「これ以上の追加・変更が出ると稼働が遅れ、開発費用が増額になります」と、家電量販店の情報システム部長に伝えていた。
結果的には日比谷ソフトウェアのPMO(プロジェクトマネジメントオフィス)が支援に入り、家電量販店情報システム部の担当者にも同席してもらい、利用部門の責任者に「要望」を打ち止めにする申し入れをする一幕もあった。だが、時既に遅しで、プロジェクトの予備費を食い潰してしまう「赤字プロジェクト」に陥ってしまったのである。
社内に情報システム部を擁していたが、利用部門の言うなりであり、当事者意識がなかった。情報システム部がベンダーに丸投げする典型的なプロジェクトであった。
加藤は、失敗の真因は、ビジネス要求をまとめようという顧客側の当事者意識の欠如、プロジェクトを共に推進しない後ろ向きの姿勢、システム開発の難しさを軽視した安易な丸投げ体質、と結論付けている。
今回のプロジェクトもその二の舞にならないといいが・・・。

4月3日(水曜日)午後4時、呉服の桐生の大会議室では、プロジェクトのキックオフミーティングが始まった。終了後に懇親会があるため、キックオフミーティングは夕方からの開催であった。
出席者は主にステアリングコミッティのメンバーだった。呉服の桐生側は佐々木のほかに、社長の桐生藤四郎、販売部長の高橋、直販部長の新井、という4人である。
一方日比谷ソフトウェア側は、プロジェクトマネージャーの前田に、加藤と桜田譲、それに加藤の上司で、ソフトウェア開発事業部長兼常務取締役の山本と、こちらも4人である。
会議は桐生藤四郎の挨拶から始まった。着物の販売が低迷しており、近年新たな販路開拓に苦労していること、新システムが稼働したら売上は回復基調に転じて、社内にかつての活気が戻るのを期待していると話した。
その後、前田が資料の説明を始めた。
佐々木がちらりと高橋を見ると、若い女性が説明していることに対して「意外だ」というような雰囲気を醸し出していた。説明者の前田は、資料に目を落としていたので気づいていなかった。
資料の説明は順調に進み、前の週の打ち合わせで佐々木が両社のプロジェクトマネージャーを同格とするよう指示した体制図は修正が反映されていた。特に異論は出なかった。
前田は説明の途中で、何度か「質問はございますか」とたずねた。藤四郎が、プロジェクト推進にあたって桐生呉服の現場の要望をしっかり情報システムに反映してほしいこと、日比谷ソフトウェア側との責任分担や、業務部門側のニーズを確認するスケジュール調整などについて、いくつか要望を述べた。
その他は特に質問はなかった。販売部長の高橋は、居眠りしている場面もあった。キックオフミーティングは無事終了したが、加藤は嵐の前の静けさ、を感じていた。キックオフミーティングが「しゃんしゃん会議」のユーザー企業は、総論賛成各論反対になりやすく、あとで揉め事が多いことを、加藤はこれまでの経験則から学んでいた。いずれにしても、キックオフミーティングは無事終了し、前田は緊張の糸がほぐれるのを感じていた。

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