第2話:眠る需要と顧客管理

眠る需要と顧客管理

呉服の桐生に、電算室が発足したのは1980年半ば頃だったと藤四郎は先代から聞かされている。1976年生まれの藤四郎が小学校に入学するあたりだ。1989年(平成1年)には、国内におけるコンピューター・ハードウェアメーカーで当時トップ3に入る朝日製作所製のオフコン(オフィス・コンピューター)が導入された。
それを機に卸問屋との受発注や在庫の管理といった基幹業務系システムが順次整備されていった。平成5年(1993年)、現在につながる情報システムの基本骨格が完成した。その後、ハードウェアは更新しつつも、ソフトウェアをアップデートしながら今日まで稼働し続けている。

2018年8月6日(月)、経営会議の場で、藤四郎は、販売部長の高橋、総務部長の水沢明彦、そして直販部長の新井重雄、経理部長の富岡真司ら幹部を前に、店頭に訪れる顧客への直接販売と、卸問屋など事業者向け販売との比率見直しについて、検討を重ねていた。藤四郎は、売上に占める直販の割合を増やすこと、併せて、マーケティングの拡大戦略や顧客管理を軸とする情報化投資を強化していきたい、という思いを持っていた。
呉服の桐生の情報システムを所管する総務部長の水沢が、IT環境の現状について説明した。
「ご存知のように、現在当社で使用している基幹業務のコンピューター・システムの基本設計は平成5年(1993年)に形作られたものです。現在も、ほぼ変わっていません。 経理や人事業務、また製品在庫状況などで問題なく稼働しています。ただ、ご指摘のように、顧客管理の機能は含まれていません。とはいえ、世間でいうSFACRMと呼ばれる、顧客管理を含めた仕組みが、当社の取引形態のような、卸売業者が相手の企業で導入してうまくいった、という話は耳にしたことがありません」と水沢。間をおいて、こう続けた。
「しかし、呉服業界のビジネスモデルがB2BからB2Cへシフトするテコ入れの中で、CRMが必要ではないかと考えます」
すると、専務を兼ねる販売部長の高橋がぼやいた。「IT屋は口を開くと、二言目にはいつもの三文字英語だ。なんだ、その、Sとか、Cとかは」 。高橋は苛立たしげに湯飲み茶碗を傾け、ずずーと音を立てて飲み干した。
水沢は「SFAはセールス・フォース・オートメーションの略です。営業支援システムと呼ばれています。CRMはカスタマー・リレーションシップ・マネジメントの略です。直訳すれば顧客関係管理です」と説明した。
「最初からそう言えばいいじゃないか。それでオートメーションに、顧客管理か。それを使えば売上を伸ばせる、とでもいうのか」
「はい。CRMについては、ある高級ホテルではリピーター管理で成果を上げていると聞いています。例えば車の車種、ナンバープレートを記録しておけば、お客様に氏名を直接聞かなくても、どのお客様のお車かわかります。その分、ホテル側が顧客を迎える準備が一手早められます。部屋のアップグレードを提案する際にも、過去の宿泊履歴情報を活用すればスムーズです。宿泊客がそのホテルのサービスに満足度を感じてくれれば、リピートして利用くれるロイヤルカスタマーになってくれます。当社が今後、富裕層向け、準富裕層向けの販路開拓や顧客管理を行うのであれば、うってつけの仕組みだと思います」と水沢は説明した。
着物にはピンからキリまである。上を見れば、正絹(しょうけん)や純絹と言われるシルクを手織りし、著名な染色家や着物デザイナーがあつらえる伝統工芸品ともいうべき着物は100万円を超えることも珍しくない。一方、近年は、ナイロンなどの化学繊維素材の品質も向上し10万円、20万円程度の価格帯で買える着物も流通している。あらかじめサイズ別にラインナップされた既製品も出回る。夏着物では、手頃な価格で楽しめるインクで捺染したプリント生地の浴衣が若い人にも人気だ。ちなみに着物は、襟周りなどその人の希望に合わせて手直しをするが、既製の着物の丈の調整は、おはしょり、など着付けの仕方によってある程度、調整することも可能で、大切に使えば親から子へと受け継ぐこともできる衣類である。
呉服の桐生では、客層を来店頻度や購入額などで大きく3つに分けているが、直販の場合、富裕層や新富裕層向けは概ね、過去3年間に累計200万円以上の商品購入経験がある高額所得者や資産保有者と位置づけている。客層で見ると1割にも満たない。支出額100万円以上の顧客が2割ほど、50万円以上の購入が3割近くである。
さて、CRMシステムは一般的に、顧客を中心として様々な接点(チャネル)から集まる情報をデータベースに集約することができる。例えば、顧客専任の営業担当者、店舗で接客する販売員、問い合わせを電話やメールで受けつけるコールセンターのオペレーター、またはECサイトの販売担当者などを通じて得られる、顧客との取引に関する情報を集約し、部署間で共有することで対応品質を向上させることが可能だ。浮かび上がったニーズに基づいて顧客への提案を行う機能を組み合わせて使われるパターンが一般的だ。
例えば、ある顧客は店舗の来店客であると同時に、ECサイトの顧客であるというケースがある。企業内で異なるに顧客IDを割り振って管理していた、ということに気づき、名寄せをすることで、窓口ごとにバラバラだった対応を一元化し、顧客と企業の関係をよりよいものに改善できる可能性がある。
ただ、直販部長の新井は不安げだ。
「卸問屋など事務者向けの販売は、取引先ごとに決められた販売担当者が割り当てられます。高橋販売部長のいうように、長年築いてきた担当者同士の信頼関係が生命線です。一方、来店される不特定のお客様と出会いから始まる直販は、アプローチが異なります。店頭での直販は、来店客の目で見ると、前回対応してくれた担当者がたまたま店に出ていないときに、違う担当者に変わってしまうとうまく対応を引き継げない。そこをCRMシステムでうまくフォローできるのか。それと、現場のITスキルも皆それぞれ異なります。正確で精度の高いデータがタイミングよくうまく入力・蓄積されないと、システムとしての価値が得られないのではないか、と心配です」
直販部長の新井の話を、販売部の高橋は黙って聞いている。高橋は自分が役付きで新井はそうでないという立場の違い、また自社の売上6割を担っているのは、俺たち販売部だ、というプライドから、どこか新井を上から見ていた。
「CRMを過信してはいけない。道具はそれを使いこなす人がいて初めて生きる、ということか」と、藤四郎はつぶやいた。
全国に3カ所ある直販店舗やデパートやイベント会場での催し物などの接客をきっかけに、呉服の桐生の着物を手に取って、興味を持ってくれた客の好みやニーズ、家族構成や職業、資産状況などを読み解き、きめ細かな顧客対応に努めていく。呉服の桐生のファンを増やし、末長くよい関係を築くことが大切だ。これまでも催し物などで顧客と接する機会は数多くあったが、きちんと顧客の情報を管理してこなかった。それぞれの担当者の頭の中に情報が蓄えられていたが、組織としてうまくいかせる仕組みがなかった。
「当社の売上の6割強を占める事業者向け販売に頼るだけでは、これからの10年は心もとない。新しい販路と商機を広げなければ生き残れないだろう。もとより、事業者向けも直販もどちらのお客様も大事なことには変わりない。CRMなどの道具を活用して、直販も卸向けも担当者を支援する仕組みが不可欠だ」と藤四郎は言った。
水沢は、藤四郎の発言に頷いた。高橋は目を閉じたままじっと話を聞いていた。
会議での話題は、情報化にあたっての予算規模や大まかなスケジュール感などに移った。藤四郎は、CRMシステムへ投資する意思をほぼ固めていた。

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