ピンチはチャンス!~山口の山奥の小さな酒蔵だからこそできたもの~
旭酒造株式会社 会長 桜井 博志 氏
BSIAシンポジウム2018は日本酒 獺祭で有名な旭酒造株式会社 会長 桜井博志氏の基調講演で幕を開けた。旭酒造は杜氏と蔵人による酒造りではなく、社員だけの酒造り、そして通年で製造を行う四季醸造体制が特徴的な酒造だ。獺祭ブランドの人気のために品薄状態が続いていたが、2015年に新工場が設立され、生産が大きく増えたことが話題になった。
大事にしてきたのは「本質」
旭酒造があるのは山口県で2018年7月の西日本豪雨では旭酒造も大きな被害を受けた。被災直後の記者会見では、「夏も作っているからこうなったのだ」と心無いことも言われた。しかし、桜井氏は獺祭の本質は品質にあるという。品質を突き詰めた時に杜氏が作るよりも工場で1年を通じて作った方が「おいしいお酒」を造ることができた。
桜井氏はそれを示す映像を紹介した。ニューヨークで獺祭を振舞う会の様子だ。参加費は90ドルでお客さんが若く、女性が多く、6割が日本人ではないというのが特徴だ。一般的な酒蔵がやるような会とは客層が全く異なる。日本酒は日本の酒、地域の酒を飲まなければならないという思い入れは外国人には受け入れられない。しかし、本当に美味しい酒は、誰が飲んでも美味しい。美味しければだれでも買ってくれる。美味しいということがすべて。だから獺祭は美味しさを追求した。結果、若い女性や外国人にも受け入れられた。本質である酒の美味しさを遮二無二追いかけることが旭酒造の仕事だ。
おいしいお酒をつくることに拘って
では、そのために何をやっているか。やはり大事なのは社員だ。杜氏はいない。社員が作る。平均年齢は約27歳で、若い。しかし、通年の生産が彼らの経験値を底上げする。
そして酒の原料である米は山田錦しか使わない。「よく『うちは技術があるからあまり磨かない』ということを言う酒蔵もある。しかし、うちは技術がないからコメを磨く」
現在、日本酒業界は43年間に1/3に縮小している。旭酒造も売上1/3になったが、桜井氏は社長就任後33年間で売り上げを110倍にした。なぜこんなことができたのか。既存の市場ややり方にこだわらず、本質を追い求め続けたからだ。
市場は地元に拘らず、売れる酒屋にだけ販売し、東京市場で売れるようになり、全国そして海外に広がっていった。集落全部で30人くらいの、橋をかけるかどうかでもめるくらい山奥の過疎地。普通なら地元の酒を地元の酒屋で地元の人のために売る。しかし、力のない酒蔵は小さな市場では生き残れない。小さな市場では資金競争になる。だから、広い市場に向かっていかないといけない。大きなマーケットで少しの売り上げを築くのがこれからも基本スタンスとなる。
しかも、山口は酒というイメージがない。それゆえ美味しい酒を造るための良い酒米が県内では手に入らず、自分で作ろうとしても種もみも手に入らなかった。そこで農家や他県の経済連に直接切り開いていった。
桜井氏が社長就任後、15年間一緒に酒造りをした後に杜氏が辞めてしまったことがやはり転機だった。社員とつくる日本酒。経験も勘もない。しかし、昭和50年代にはこうすればうまい酒ができるという方程式があった。だから教科書通りにやる。そしてデータを使ってやるということにこだわった。天才杜氏は頭の中にデータが詰まっている。天才杜氏の頭の中を外に出して、みんなができるようにする。
また、販売網も宅急便の出現により、東京をはじめ全国の酒屋に出荷ができた。自家配送や卸を通じての配送よりもコストが安く、品質も良かった。そして、コピー・ワープロの低価格化により自分たちで広告・宣伝ができた。「自分が社長になったのは1984年。とても良いタイミングで社長になったと思う」
常識外れの戦略がピンチや逆境をチャンスに変えた
しかし、なぜ桜井氏は獺祭の本質を品質としたのだろうか。桜井氏が生まれた昭和25年、酒はとても高級品だった。しかし、社長に就任した1984年は大工の日当でアル中になれるほどの酒が買える時代になった。当時の客には「酒は2級がいちばんうまい」と言われた。2級をじゃぶじゃぶ飲むのが男らしいというのを日本酒業界は真に受けて勝ち組の酒蔵は舵を切った。しかし、大量で安価な生産は地方の有名産地でもない弱小酒蔵であった旭酒造には取れない戦略だった。だからこそ、ちょっと高くてもおいしいお酒、ほろ酔いを楽しめる時代を作るために、大量販売の論理からお客様の幸せ志向商品である純米吟醸に舵を切った。負け組だからこそ取れた戦略だ。そして、消費者の言うことを鵜吞みにして大量生産していった勝ち組たちに対して、実際の消費者は高級なブランデーやウィスキーに流れていき、日本酒業界そのものが縮小していった。獺祭のWebサイトには「酔うため 売るための酒ではなく 味わう酒を求めて」という言葉が今も掲げられている。
旭酒造の酒造としては常識外れの取り組みに批判は多いが、だからこその成果を上げている。四季醸造体制の確立は経験も蓄積でき、1年を通じて設備を使うため、コスト効率も良い。何より一番良い状態のお酒をお客様へ届けられ、販売の増減にも柔軟に対応できる。
高さ60m12階建てのビルを酒蔵にして酒を造り始めたことで酒蔵の伝統を壊したとも言われるが、ビルだからこそ今回の豪雨でも生き残れた。元の木造蔵なら白アリに食われ、濁流に流されていた。
また、原料である大事な山田錦確保のために「補助金を計算する米作りと法人所得税を心配する米作り、どちらが良いか」と農家に働きかけている。生産は38万俵から62万俵となった。
「市場の開拓も酒米の調達も人任せではここまでできなかった。そして、すべては本質である品質を大事にしてきたからだ」
山奥の小さな酒蔵だったからこそ、逆の発想で逆境をチャンスに変えてきた旭酒造。ロブションと組んでパリでのレストラン出店やアメリカ・ニューヨーク・郊外のハイドパークで酒蔵作りなど、新たな常識外れの施策もスタートしている。これからの旭酒造の取り組みからも目が離せない。
田口雅美(BSIA運営委員・株式会社キテラス)