暗礁に乗り上げたプロジェクト
呉服の桐生に提出する再提案書「WINプロジェクトの再構築に向けて」の骨子として記された内容は、リスクマネジメントの観点からのプロジェクトの見直しの提言、見直しに至った経緯とその要因、再構築に向けてのスケジュール、コスト、プロジェクト体制などだ。特にユーザーの立場でのパッケージ使用の留意点について、他のプロジェクトの例を入れながら分かりやすい言葉を選んで資料に挿入した。
特にパッケージが、導入する業務のモデルやプロセスとどの程度適合するか、詳細に分析するために、改めてFit&Gap分析をユーザーとともに実施することを盛り込んだ。そして業務をできるだけパッケージにあわせるように、ユーザーの部門横断的な業務設計の見直しについて協力を求める一文を加えた。カスタマイズは最小限にする。どうしても必要なカスタマイズ項目には優先度をつける。またサービスインまでに開発する項目と、次期フェーズで開発する項目に分ける。それらの作業工程をスケジュールに引いてみると、ほぼ8カ月のプロジェクトとなった。サービスインは、2020年11月からとなる。
2月6日(木曜日)、日比谷ソフトウェアの役員が参加する緊急の経営会議が始まった。日比谷ソフトウェアの代表取締役社長である箕輪俊一も参加していた。
加藤は再提案に関する説明を行った。
営業部長の畠中道夫は、「客先と揉めて裁判沙汰にでもなったらどうする。このまま進めるべきだ」と押し切ることを訴えた。一方、ソフトウェア開発事業部長を兼務する常務取締役の山本は、「無理に作り上げても品質不良だ、と先方から訴えられたら結局、同じことだ。争いの火種になる。それこそメディアにでも書き立てられたらうちの信用はガタ落ちだ。仕切り直してよく話し合って決めるべきだ」と指摘した。役員の意見は割れた。
加藤は努めて冷静に説明を続けた。
「ここで重要なのはリスクマネジメントの観点で客観的に状況を分析することだと思います。今回、私たちの犯した間違いは、このプロジェクトのリスクともっと早い時点、つまりカスタマイズ要求が膨れ上がった要件定義の段階で、リスク管理表に基づいて状況を客観的にアセスメントするべきだったことです」
加藤は、5年前の家電量販店のCRMソフトウェア導入案件の経験にも触れた。このような事態が実は、過去にも起こりえたが、開発側が無理を押して表沙汰にならないよう吸収してきた。その内実を打ち明けながら、プロジェクトの強行を主張する営業部長の畠中を含む幹部らの説得を続けた。
「要件定義にはユーザーの協力が必須です。ユーザーがレビューして、サインオフをしたのですから、我々は、このような混乱を招いた責任の一端を、あるいはその大部分をユーザーに帰すことができるかもしれません。とはいえ、そもそもこのパッケージを提案したのは、ベンダーである我々であることも動かせない事実なのです」。会議室に沈黙が流れた。
「今回のこのプロジェクトの発注者である呉服の桐生様にとっては、クラウド環境での開発も初めて、部門間の密接な連携が必要なCRMという機能の導入も初めて、という初めてづくしの厳しいプロジェクトだったのです。これらを我々は、リスクとして早期に把握し、その対応策を具体的に検討し、講じるべきだったと私は思います」
加藤は最後にこう言った。
「もちろん、このような事態を招いた責任は、プロジェクトマネージャーである前田の監督不行届も含めて、自分にあることは認めます。この点は深くお詫びいたします。その責任を取ることも致し方ない、と思っています。その上で申しあげます。このプロジェクトをこのまま進めることで、最も問題なのは、大切なお客様との信頼関係を失うことです。この再提案をもって、腹を割って話しをし、誠意を見せることが、長期的な観点で我々ベンダーが取るべき道だと思います」
加藤は、そう言い切って再びメンバーを見渡した。そして着席した。
社長の箕輪が言った。
「我々は、苦楽を顧客と共にするビジネスパートナーだ。時に相手に耳の痛い指摘もしなければならないことがある。それも互いの信頼があってこそだ。加藤君、誠心誠意、粘り強く交渉してくれ。頼んだぞ」。
経営会議では、再提案を呉服の桐生に提示する方向で決着をみた。
2月10日(月曜日)加藤は、佐々木に説明するため、前田と共に呉服の桐生に向かった。
「佐々木課長は、納得してくださるでしょうか?」と前田は加藤に尋ねた。
「納得もなにも、佐々木さん一人では決められないのは事実だね。おそらく、我々に怒鳴り散らしたあと、とりあえず預かっておく、ってことになるだろう」と加藤は返した。
通された会議室で、加藤は佐々木にプロジェクトの立て直しに関する日比谷ソフトウェア側の方針を資料をもとに話し始めた。このプロジェクトは最初から大きなリスクを抱えていたこと、そしてリスクに対して適切な対応策が講じられなかった点を、加藤がPMBOK🄬のリスクマネジメントのフレームを使用して説明した時、佐々木は聞き入っていた。
加藤の読み通り、佐々木は、「要点は理解した。ただ、この点は譲らないよ。こうなったのは、おたくがプロジェックを適切にマネジメントできなかったからだ。前田君の口癖のPMBOK🄬も役に立たなかったわけだ。ともかく預かっておく」と席を立った。
佐々木はいつもの嫌味をぶつけてきたが、意外にも素直に再提案書を受け取ったように前田からは見えた。
(佐々木さんも不安を抱えていたのだ・・・。でもどうしていいいか分からなかったのだ・・・)と、前田はユーザーの気持ちを自分が十分に理解していなかったことに気がついた。
(PMBOK🄬だけでは、プロセスだけでは、プロジェクトは上手くいかないのだ。プロジェクトに関わる人の気持ちを汲んで、それにどう応えるかのスキルが私には欠けていたかもしれない)。
そういえば、メンタル不調を抱えていた桜田にも、その桜田を見守っていた岡田とも、そして、ベトナムの現地のプログラマー達と日本チームの間で板挟みになっていた、ブリッジSEのベトナムの技術者たちとも深く会話をせず、プロジェクト管理資料だけをひたすら追っていた。
(そう、それだけではダメなのだったのだ・・・。でも、でも、時間がなかった、時間があまりになかったのだ)と、前田は必死に自分を納得させようとしていた。
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