クスリとデジタル
はじめに
新型コロナの拡散により医薬品の臨床試験 (新型コロナ治療薬の試験ではなく通常の試験)が遅れていると聞く。
しかし一方では、グローバル製薬企業とグローバルヘルスケアIT企業が協力してリモートによる臨床試験の方法をさぐり、コロナ前と変わらない成果を出そうとしている例もあると聞く。
期待される難治性疾患の新薬上市の遅れは患者さんの命に直接影響を及ぼす。
これまでの試験の方法では何か通常ではない環境の変化が起こった場合、プロセスが中断してしまう可能性が出てくる。
Business Continuityとしてだけの考えではなく、新型コロナ拡散のように大きな環境の変化があっても、通常通りのプロセスを回すための方策が、すでに一部の製薬企業では実行され始めている。
ここにデジタルがあってこそ可能となる多くのプロセスがある。
例えば、在宅での臨床試験(治験)を可能にする検査方法の確立。オンラインによる統合されたデータの収集プロセスとAIによる分析。申請資料の作成等々が挙げられる。
さて、医薬品が、その種といわれる新規化合物が発見されてから世に出るまでのプロセスとデジタルの役割について考えてみたいと思う。
ひとつの新しい医薬品が誕生するには10年以上の年月と数百億円以上の費用がかかるといわれている。また、新薬として上市されたのちも安全性や有効性などの調査に加えて、生産や物流の各工程に、法律で定められた医薬品独特の管理プロセスが必要となる。
これまで、医薬品産業は自動化やデジタル化が他産業に比べて遅れているといわれてきた。
しかし、ここ数年、デジタルに下支えされた医薬品に係るプロセスに、改革の兆しが見えてきた。
創薬:狙いどおりにより速く
今から20年ほど前まで、新薬の種になる物質は、植物などの生物や土壌を調べたり、合成技術を駆使したりして、新しい化合物を作ることで発見しようとしていた。
この方法は極めて効率が悪い。発見された新規化合物の中から医薬品になりそうな候補物質をスクリーニングし続けても、最終的に医薬品として残るのは数万種類の新規化合物のうちのひとつくらいといわれていた。
いくらブロックバスターと呼ばれる大型新薬が世に出たら元が取れるといってもギャンブル的側面があり、巨額の費用と長い歳月をかけても、当然最終的に何も得られないというケースが散見された。
そこで考えられたのが、In Silicoといわれている、コンピュータを使って生物学的な見地から、医薬品として有効性が期待できる新規化合物をシミュレーションするという方法である。また、そうやって得られた化合物が本当に新規化合物かどうかを見極めるために、世界中で登録されている天文学的な数の化合物を含むライブラリーをコンピュータがスクリーニングするという方法がとられる。
つまり、この頃から創薬にデジタルが芽生え始めたといえる。
最近のニュースでは演算速度世界一を誇る富岳が、新型コロナに効果を有する可能性のある既存薬のスクリーングに威力を発揮している。
そして今、デジタルに支えられた創薬は Personalized Medicine(ひとりひとりに適したテーラーメイドの医薬品や治療法)の実現を可能にし始めている。
分子標的薬(癌などの狙った細胞のみを攻撃する薬剤)が出現したと思ったら、ゲノム創薬が台頭し、細胞技術やCAR-T細胞療法(患者さんの細胞を加工してその患者さんを治療する)などこれまで治癒が見込めなかった疾病に奏功する薬や治療方法が表舞台に躍り出ている。
これらの進歩を可能にした強力なデジタル技術は、この先の5年、10年でさらに大きく進化し、その成果には我々の予想を大きく超えるものがあるだろう。
開発・試験:より確実に、より速く
有望なクスリの種が見つかったら、医薬品として世に出すための様々な調査や試験が開始される。医薬品の開発プロセスではそのクスリの種の安全性、有効性などを徹底的に調べることになる。この段階でも多くの種が医薬品として認められることなくプロセスの途中で脱落してしまう。
そして、臨床試験前の様々な試験で毒性や安全性が確認され、合格した種のみがいよいよヒトを対象にした臨床試験に進むことになる。
臨床試験では安全性や有効性を保証するための大量のデータが集められ、解析され、やっとのことで当局への申請資料が完成し、申請というこのプロセスの最終段階に駒が進められることになる。
この資料をもとに当局での審査がおこなわれ、うまくいけば1~2年後に承認されるわけであるが、この間データや書式の不備があると申請は差し戻しされ、再び申請するためにはまた多大な労力が必要となる。
さて、ここで重要なのはまずそのクスリの有効性や安全性が正確に、十分に確認されているかどうかである。そして、データや情報にもれや抜けがないかである。
また、臨床試験の前に行う非臨床試験(前臨床試験)ではGLP(Good Laboratory Practices:
非臨床試験における信頼性を保証するための基準)に準拠する必要があり、臨床試験をおこなう際は、GCP(Good Clinical Practices;臨床試験の実施に関する基準)という基準に厳密に沿うことが求められている。
簡単にまとめただけでも非常に多くの作業が必要となるわけだが、ここでのキーワードは「正確に、速く」である。つまり、工程の品質を保証し、間違いなく、速く作業を完遂しなければならない。
ここにデジタルが活躍する場面が数多く存在する。
例えば、品質を保証するためのすべての作業指示と、指示通りに作業が行われたことを証明するすべての記録、試験の結果を示す膨大なデータの収集と解析。それらのデータを当局への申請に必要な形にまとめ上げるための工程。これらのすべてにデジタルの応用が大きな効果を出している。そして、品質保証や信頼性保証のシステムを構築するための総合的な手段の構築にも、デジタルの活躍が大きく期待できる。
複雑化した医薬品の開発プロセスにおいて、ヒトの手で作業を進めることは多くの間違いを生み、しかも想像できないほどの時間を要する。つまり、デジタルなしでは現実的には不可能な作業ということになる。
この分野に本格的にデジタルが登場し始めてからまだ2~3年、やっと「正確に、速く」を支援するデジタルの役割の方向性が定まってきたところであるが、これから先のデジタルの活躍には目を見張るものあることは容易に想像できる。
おわりに
これまで医薬品の業界におけるITの支援は遅れているといわれてきたが、ここにきてデジタルの支援がこの業界の進歩に拍車をかけ始めている。
安全で効果の高い医薬品が、種の段階から人々の健康に奉仕できるようにするための開発プロセスにおいて、デジタルは必要不可欠な存在になった。また、クスリ以外の医療全般においてもデジタルの進展にはめざましいものがある。
そして、これから先、デジタルが我々の想像を大きく超える働きをするのは間違いなさそうである。
医薬品に係るプロセスは市販後、生産・物流と続くが、それぞれにおいてもデジタルはすでに活躍を開始しており、将来の進展には大きな期待が寄せられている。
その内容には大変興味深いものがあるが、また次の機会にご紹介したいと思う。
これまで、治せなかった疾病が確実に治癒し、人々が健康に不安を抱くことなく生活を楽しみ、社会活動に励むことのできるよりよい時代を創るために、これから先、特にデジタルの活躍から目が離せなくなるだろう。
(2020年7月28日)