メンタル不調のサイン
そして、この終わらない仕様変更は、11月22日(金曜日)の定例会でも持ち出された。今度は、業務管理課の三上が言いにくそうに切り出した。
「実は、マーケティングを行う企画部と、販売部で調整したのですが、マーケティング担当者の要請で、どうしてもこの機能が必要だと言い張りまして。これは最初の話と違うと説明はしたのですが、どうしても、というのです」
投影した資料にポインターを当てて説明する三上の報告を、佐々木は腕組みをしながら、聞いていた。前田は恐らく、佐々木が三上に定例会で提示するようにと指示したものと理解した。
前田は、手許のファイルを指し示しながら、三上に説明した。
「しかし、この機能を組み込むとしたら、ようやく完成が見えてきた第1回バッチの、この機能も変更しなければいけません。これは、システムの根幹にかかわる仕様変更です。何度も申し上げていますが、仕様の変更、つまりいったん実装したシステムの機能を変更すると、それはスケジュールやコストに影響をもたらすことになるのです。仕様の変更は、慎重に扱わなければいけません。この時点でのこのような変更はスケジュールを引き直さなければ対応は困難です。なんとか、マーケティングご担当者を説得していただき、次のフェーズで検討するような形にしていただけませんか?」と、前田は落ち着いた素振りを装い、なるべくゆっくりと三上に伝えた。
この日の金曜定例会では、他にも、大小含めて、10を超す仕様追加・変更が三上から持ち出され、1時間を予定していた会議は、2時間半を費やして、結論には至らず次回持越しとなった。
11月26日(火曜日)の朝、やっと第1回バッチの検証とプログラムの修正が終了した。この日の火曜定例会でそのことを報告すると、佐々木は「大した変更じゃないだろう? もともとパッケージなんだから、機能そのものものはあるんだろう? いざとなれば、予備の日程と費用を使えばいいんだ」と言った。押し問答の挙句、やっと終了した第1回バッチに変更を加えることになり、当初3回予定のバッチが、結局4回に膨れた。トータルの日数は変わらないので詰め込んだ分、プログラムのコーディング、受け入れテストの日程をそれぞれ短縮するスケジュールが組まれた。
本来ならば、一旦確定したWBSを引き直す作業はやるべきではない。だがこのプロジェクトでは、手が加わった。WBSが何度も書き換えられ、どれが最終版なのか、見えなくなっていった。プロジェクトは、次第に混乱の隘路に迷いこんだ。変更とバグフィクスを盛り込んだバッチが何度も繰り返され、その度に受け入れテストが行われたが、何度も書き換えられた仕様書、設計書と、WBSとの照合は困難を極めた。
迎えた2019年の師走はいつになく慌ただしかった。
日本語が堪能なベトナム人のブリッジSEが、前田に窮状を訴えた。
「ベトナムの現場は、大混乱です。休日返上で作業をしていますが、追い付きません。それでも、作業の段取りがついていれば、頑張れるのですが。ベトナム人の若手が、仕事を辞めたいなどと言い始めています」
普段は弱音を吐かない岡田も同様だった。
「1カ月のコンティンジェンシーを使ってもこの混乱を終結させるのは、難しい気がします。すみません、僕がもっとしっかりして、もう少し早く手を打っていれば」と虚ろな目で話した。
そういえば、若手のメンバーの桜田の姿がここ数日、見えない。前田は岡田を、前田は昼下がりの人気の少ない社内のカフェテリアに呼んだ。岡田は桜田の指南役でもあり、面倒見がいい。岡田に聞くと、桜田は体調を崩して休んでいるという。
「実は、ちょっとメンタルがやられているようです。ここ何度か月曜日の朝のチーム会議に遅れてくるか、午前中欠勤するかが目立って気になってはいたのですが。ただ僕の方も手一杯で、話をしようと思いつつ、何もしてやれなくて。桜田は数日前、『風邪をこじらせてしまったから休みが欲しい』と申し出てきました」。
「そうなんだ・・・。私は全然気づかなかった」
前田もかつて自分がメンタルの不調に陥ったことがある。それを思い起こして、桜田君も私と同じ症状なのかもしれない、と思った。
(自分の場合は立場があるし、プロジェクトの修羅場の経験もあるから、なんとか持ちこたえているけれど、桜田君には初めての経験であるだけ辛い思いを抱えさせてしまったかも)
今この状況で、桜田の戦力を失うことは、前田チームにとって打撃である、とプロジェクトのことしか考えられない自身を反省しながら、前田は続けた。
「それで様子はどうなのかしら? 復帰はできそう?」
「正直、難しいかもしれません。復帰まで時間がかかる気がして、どうすればよいか・・・。桜田とは、今のところ頻繁にLINEをしています。どうやら僕には、正直に打ち明けてくれます。桜田が言うには、朝なんとか起きて、駅まで行くのですが、どうしても電車に乗れない、って。駅のホームでぼんやりして、気は焦っても体が動かない、ベンチに座ってぼんやりと行き交う人を見ているうちに時間だけ経ってしまうと。そのまま家に帰るしかできないけど、家にいたらいたで、会社だけはいかなくては、と気が急いて落ち着かず、夜眠れない、食欲もない。天井見ながら色々考えても、堂々巡りで苦しくて、情けないって・・・」
「会社の産業医に相談したら?」
「僕もそう言ったのですが、本人は産業医に行くぐらいなら、このまま会社を辞めたいって。こんな状態は今だけだからと、引き留めてはいるのですが、ともかく近いうちにでも直接会って話をしてみようと思います」
「ありがとう。そうしてくれると嬉しい。岡田君にも面倒かけてしまってごめんね」
「いや、そんなことないですよ。あいつ、いいやつだからやめてほしくないんです」と笑みを浮かべた岡田は、少し寂しそうに見えた。
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